DIARY

2009.11.6(金) 

新しいコンテンツ、Specialが始まりました!Topページからお入りください。木
暮とユルく楽しい音楽対談をしばらくはやっていこうと思っています。多少音楽ファ
ン向けの内容になっています。覗いてみてください! 

観ていなかった超有名な名作映画「スタンド・バイ・ミー」を今ごろ観た。そのう
ち観るだろうと思ってまだ観ていない超有名映画はけっこうある。「ET」とか「タイ
タニック」とかね。
少年4人の物語だから、ラストに泣かされちまうことは容易に予想できたので、泣
いてなるものかと心していたから、ちょっと泣いただけで済んだ。危なかったぜ。気
を許していたら号泣しかねなかったな。
子供の頃の仲良かった友達との思い出。誰にでも身に覚えがあることなんじゃない
かな。ぼくも小学生時代、近所の空き地で数人の友達と棒っ切れや板っ切れをいっぱ
い拾ってきて2階建ての掘建て小屋を2年くらいかけて建てた。隣に小さな平屋の家
も建てて地下道でつながっていた。その家で友達のおかあさんが作ってくれたバカで
かいお菓子の家をみんなで食べて誰かの誕生会をしたことがあった。その家は間もな
く近所の大人たちの危険だという意見によって遊ぶことが禁止され、取り壊された。
でもすごい楽しかったんだよなあ。小学校6年のときにぼくが転校してから、その時
遊んでいた友達には一度も会っていない。あいつら元気かな

2009.9.28(月) 

映画「ラースと、その彼女」を観た。
妄想の病に陥った主人公のラースはある日、ダッチワイフを自分の恋人だと真剣に
思い込み、兄弟や知人、彼の住む田舎町の人々達に紹介する。ラースの行動に戸惑い
ながらも彼を受け入れ、ラースのダッチワイフの彼女を本当の人間として振る舞う彼
の知人、町の人々。
この映画のストーリーが女性によって書かれたということは途中から分かった。男
性だったら、ふつうの町の人々の穏やかな善意と優しさを、この映画のようなタッチ
には描けない気がする。男性だったらきっと悪意をもう少し積極的に描かざるを得な
いだろうし、そうでなければストーリーが破綻すると思うだろう。
1980年代までの映画なら、主人公の狂気がもっとテーマの中心に寄っていて、
もっと暗いタッチの映画になっていただろうが、この映画は、人と人との繋がり、か
かわり、がテーマの中心に寄っていて、狂気はあくまでも主人公の状況設定として扱
われるにとどまっている。こういうところが、いまの映画なのだろう。
どうやらいまの人々は、「狂気」よりも、「人との繋がり、関わり」の方に、目の
前にある現実的な問題として感心を向けているように思えるのだ。逆に言えば、いま
はそれだけ「狂気」がありふれたものとしてぼくたちの目に映る世の中なのだろうか。
面白おかしい、心温まる、ちょっと切なくなるような映画だが、このカタルシスに
至る流れは、70年代までの映画にはあり得ない。いまならではの、現在のぼくたち
が飢餓している特徴的ななにものかに、この映画は触れているのかもしれない気がし
た。ストーリーが多少甘い気がしないでもないが、この映画を観終わった後のなにか
しらのいい気分は、そういう理由によるものなのかもしれないと思ったのだけど、ど
うかな。


2009.9.25(金) 

「グラン・トリノ」を観た。大作ではなく、小さな作品という感じの、とても良い
映画だった。自動車機械工を定年になった平凡なアメリカ人を演じているイーストウ
ッドは、自分の身の回りのことはなんでも自分でできる、古いタイプの人物。どこか
ダーティーハリーの老後といった感じのする、かっこ良いじじいだ。よぼよぼになっ
ても暴力に立ち向かい、弱者を痛めつける者を赦さない、イーストウッドはやっぱり
刑事(デカ)なのだ。
ガレージに自分の最高にお気に入りの車を入れて、弄ったりしながら過ごすことの
楽しさは、バイクに乗る前は理解できなかったけれど、いまなら理解できる。
古き良き時代のアメリカ人の典型なのかな。でっかくてかっこいい車が大好きで、
孤独だけれども自立している。でもこんな感じの頑固じじいは、日本にもたまに居る。
この主人公に似ている人を知っている。工具をいっぱい持っているところや、頑固
なところ、口が悪くて時々おっかねえところとか、よく似ている。
対立する「老い」と「若さ」。異文化に心を開き、認め合うのと同時に「若者」と
認め合う「老人」。
信頼するかどうかは、血がつながっていようがいまいが、同じ民族であろうが無か
ろうが関係なく、ただその人が信頼できる人かどうかにかかっているという、そうい
うアメリカ人らしい考えがいい。
世代を超えた人どうしが本音で話をすることのむつかしさ、すばらしさもこの映画
にはあるな。
習う、教えられるということも難しいけれども、教えるということはもっと難しい
時がある。教えることの責任のすごい重さに驚く時があるんだよな。




2009.9.17(木) 

コーエン兄弟の「バーン・アフター・リーディング」と、BOSSのCMでおなじみの
トミー・リー・ジョーンズ初監督作品「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」
を観た。
「バーン〜」は「ノーカントリー」とは打って変わって馬鹿馬鹿しいコメディ。物
語が進むほどに人間関係がこんがらがってどんどん説明しづらくなって行くが、物語
の内容、意味はどんどん無くなって薄く軽くアホらしくなってゆく。ジョージ・クル
ーニーが出会い系サイトにハマっていたり、ブラピが筋肉をつけることしか能がない
軽薄な男だったり、豪華な役者がチープな役をノリノリで演じていて良い。ポップコ
ーン片手に観たい映画。
「メルキアデス〜」は、トミー・リー・ジョーンズ扮する主人公が、彼の親友を殺
した男と、墓から掘り起こした親友の死体を馬にくくりつけて、親友の故郷へひたす
ら旅をするというもの。罪が罰としての旅を経て赦されてゆくまでの淡々としたロー
ドムービー。70年代っぽい後味を残す、なかなかいい感じの映画だった。

2009.9.7(月)

エリック・クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」がクラプトンとベビー・フェ
イスの共作だということを9月2日のVoice に書いたのですが、作曲者は別の人物だ
というご指摘をいただき、訂正しました。どうもすいません。

映画「ディア・ドクター」を観た。派手さの無い、どちらかというと静かな映画だ
が、最後までテンションが緩むことなくじっくり観れた。ストーリーの巧みな組み立
て方にグッと惹き込まれた。西川監督の映画は初めて観たが、他の作品も観てみたく
なった。
伊野治(笑福亭鶴瓶)という主人公がどこか想像上の人物っぽいのに対し、主人公
を取り巻く人々の心理描写、人物像が、対照的にリアルに描かれているよう思った。
とくに鳥飼かづ子(八千草薫)と相馬啓介(瑛太)の人物像がえらいリアリティーが
あるなあと思えた。
古いスタイルの映画っぽいのだが、この監督の人物の捉え方、キャラクターの作り
方になにか新しさを感じる。とくにひっかかったのが、伊野が村を逃げ出して彼が偽
医者だと皆に知れ渡った後の、相馬啓介と鳥飼かづ子の気持ちの反応などだ。
相馬啓介の態度には、伊野に対する素直な尊敬、愛情の気持ち、その反作用として
の失望、憤り、まだ伊野のことをすこし信じている気持ちなど、重層的に感情が交錯
している様子が表れている。普通の映画なら、一種類か二種類の心の反応しかひとり
の登場人物には表れないのに、この映画では、ひとりの登場人物が複数の感情を少な
いシーンで表している。普通の映画なら、裏切り者に対する裏切られた人々の反応は、
白か黒かはっきりしていて、伊野を悪く言うか、伊野を擁護するような言い方をする
かしかないというのがパターンだ。その方が、物語として分かりやすいからだ。しか
しこの映画では、相馬啓介にどっち付かずの曖昧な反応をさせている。現実の場面に
おいて、人間はそういう曖昧な態度をとる状態があるわけで、この映画には、そんな
状態が妙にリアルに描かれていて新鮮だ。
鳥飼かづ子の態度はさらに複雑で魅力的だ。娘(井川遥)の病院に入ることを頑に
拒んでいた彼女が、娘に迫られて病院に入院することを決めるシーンにグッと来た。
鳥飼かづ子も伊野に対して、よしとするかしないかのあいだのゆれ動く感情を持って
いるようなのだが、事件を捜査する刑事に対してはきっぱりと、伊野は自分に対して
何一ついいことをしなかったと答える。こういった態度に、彼女がどう生きてきたか
があらわれているのだが、彼女が生きてきた世代の標準的なモデルが、彼女にこのよ
うな態度をとらせているようにも思える。この役を自然に演じている八千草薫がすご
い。
潔い判断はかっこいいけれども、実際の人間は、あるさし迫った現実を突きつけら
れたとき、なにかしらの判断をする前に、どうしたらよいか分からないというような、
曖昧な、どっち付かずの気持ちが揺れている状態があって、まわりをうかがったりな
どもしつつも、ある瞬間に状況に押し流されるようにしてしょうがなく潔く判断する
とか、そうではなくなんとなく曖昧なままになってしまうとか、そんなかんじが、現
実的な人の気持ちの移り変わりの過程なのではないかと思う。作者はそういったとこ
ろを表現しようと、映画を作る上で、こだわっているように思える。
伊野が失踪したあと、夜の暗い山に遠く響き渡る、幻聴のようなバイクの残響音も
印象的でよかった。
見終わった後、なにか後を引いて登場人物について考えてしまう映画だった。もう
一度観たい気がしている。


2009.9.4(金) 

ここ一週間でずいぶん涼しくなった。季節は急に変わる。
映画「フロスト×ニクソン」とディズニーの「ベッドタイムストーリー」を観た。
「フロスト〜」の方は、落ちぶれたテレビ司会者フロストが、大統領の座を任期中
に退いたニクソンにテレビインタビューする。両者ともこの機会に相手を言葉で打ち
負かして視聴者を味方につけ、起死回生をはかろうとする。言わば、"言葉の決闘"の
ようなインタビュー番組を映画化したもの。後半に進むに従って物語のピッチが上が
って盛り上がり、なかなか面白かった。「ベッドタイム〜」の方は、妹の子供二人の
面倒を見なければならなくなったアダム・サンドラーが、子供を寝かしつけるときに
話すデタラメのベッドタイムストーリーが次の日、現実になるという話。今回のアダ
ム・サンドラーは半ズボンを履いたおとぼけキャラ。彼のこのキャラとまったく同じ
キャラを他の映画でも見た気もするが、子供達がかわいらしく、サンドラーの冗談も
嫌みがなくて、楽しくて良い映画だった。ヒロインは「ウエイトレス〜」のヒロイン
だった、ケリー・ラッセル。

2009.9.2(水) 

エリック・クラプトンとスティーブ・ウィンウッドの、マジソンスクエアガーデ
ンでのライブ映画を観てきた。
いつも思うのだが、クラプトンの演奏するブルースは、リズム感のきめの細かさ、
リズムの感じ方の大きさ、ピッチの正確さなど、乱れがなくしっかりしていて抜群な
のだけれど、乱れがないからこそどこかダイナミックさに欠け、あっさりとした味の
薄いものになってしまっている。だから聴きやすくもあり、アメリカの白人に受け入
れられやすいのだろう。
イギリス人でありながら、アメリカの南部のブルース、ロックを自分のものにしよ
うとしたという点では、ローリング・ストーンズと同じだが、ストーンズのほうには
粗野な乱れがあり、よりブルースの味が濃い、おいしい味が出ている。
クラプトンはなぜかかならず何年かに一回奇跡的にヒットを飛ばし、キャリアを築
いてきた。「チェンジ・ザ・ワールド」のヒットがなかったら、この映画のようにマ
ジソンスクエアガーデンを満杯にするライブができていただろうか。「チェンジ・ザ
・ワールド」の作曲者はクラプトンではなく、別の人物が書いた曲で、ベビー・フェ
イスのプロデュースにより、クラプトンらしからぬ都会的なブラック・コンテンポラ
リーに仕上がっているが、聴いた感じまったく違和感がない。クラプトンにはあまり
強い自我のようなものが感じられず、なんとなく流れのままに生きている感じがする。
彼が演奏する様子を観ていると、彼の諦念のようなものが伝わってくる感じがする。
流れのままに生きる様をプロフェッショナルの芸にしてしまったような、なにかそん
な印象がある

2009.9.1(火) 

ファレリー兄弟の「ライラにお手上げ」を観た。「メリーに首ったけ」の時と同じ、
ベン・スティラーが主演をしているが、内容も「メリー〜」路線だ。いい具合に肩の
力が抜けた感じで、楽しいコメディーになっている。
先週の土曜の朝、モトクロスに行く時、久しぶりにピーター・バラカンさんのラジ
オを聴いた。エタ・ジェームス、チェスレコードの曲、ジョージ・フェ−ムの生きの
いい曲などもかかって、楽しい時間を過ごせた。いい音楽はやっぱりいいもんだな。
スタジオに木暮が来て、またいろいろべらべらしゃべった。最近木暮は忙しくなっ
てなかなか会う機会がない。こんな時代にギタリストとして忙しくなったアイツもな
かなかたいしたものだ。
「セプテンバー」という日本語英語の響きが好きだ。「セプテンバーなんとか」と
いう曲のタイトルは欧米にも日本にも多い。9月は音楽が良くからだに響きだす月だ。
9月は、鮮やかな秋の自然の色が、涼しい風に紛れて心の景色に気配をすこしづつ漂
わせてくる月だ

2009.8.27(木)  

今日はなんにも書くことが見つからんぜ。
なぜか映画「ブラックレイン」を今頃観たんだけどさ。女の子のすごいでかい肩
パットの入った服など、要所要所出てくる80年代ぽさがおもしろ恥ずかしい感じ。
自分がバイクに乗るようになったからか、あざといバイクシーンが気になってしょ
うがない。冒頭のハーレーXLCR風カスタムに乗ったマイケル・ダグラスとスズキ
の懸けレースは「ハーレーダビッドソンとマルボロマン」並にB級ぽい。そういう
時代だったのかな。暴走族みたいなあんちゃんたちがなぜかスズキのオフ車に乗っ
てアクセルターンしたりするのも謎。タランティーノだったらこういう感じを逆手
に取ってかっこ良くしちゃうんだろう。
でも松田優作はやっぱりすげえかっこいい。存在感、迫力でマイケル・ダグラス
を食っちゃってる。こんな俳優が日本にいたなんて誇らしい。あれほど狂気をかっ
こ良く痛快に魅せてくれる俳優はもういないんじゃないかな。もし亡くなっていな
かったらハリウッドからいっぱいオファーが来たんじゃないのかな。


2009.8.05(水)

休み中だけど、今日は日記を書くことにした。
ぼくがVoice を平日更新するようになって一年が過ぎた。最近感じる時間の流れ
の速さに、変わってゆく時代の波に飲み込まれないように、なんとかすこしでも水
面に浮かんで漂流できるように、笹舟か筏にしがみつくように書き始めたVoice の
平日更新だが、もう一年が経ってしまったんだ。毎平日何かしら書くことを続ける
ことによって、自分がつまらない男であることがみなさんにバレバレになってゆく
わけだが、ぼくにとっては、そこから始めて、どれくらい自分がトレーニングでき
るのかということが、このVoice を書く理由のひとつでもある。ボクシングをやり
始めた時も、縄跳びさえまともにできなかった。へなちょこなビギナーである自分
を恥ずかしがってばかりいたら、ボクシングだってやろうとも思わなかったし、8
年も続けてこれなかった。ボクシングやオートバイは身体と勘のトレーニングだが、
Voiceは、みなさんの前で実名で顔写真入りで自分の感じること、思うことを「書
く」トレーニングでもある。それはもちろん、曲を書くための下地のトレーニング
でもある。自分はまだVoice歴一年の初心者だ。

映画「シャイン・ア・ライト」を観た。この映画は映画館で大音量で見るべきだ
ったが、観そびれてDVDを買った。映画は、撮影する側であるスコセッシと、ライ
ブをやる側であるストーンズ、ミックとの対立から始まる。スコセッシは映画とし
て見応えあるものを作りたくて、会場もストーンズがいつもやっているようなスタ
ジアムではなく、趣のあるビーコンシアターで、セットも凝って、カメラも何台も
いれて、いい絵をとるためにセットリストを早く知って録り方の方針を決めたがっ
た。しかしミックにとっては、いつもやっているストーンズのライブツアーとは違
う形式のライブになるわけで、セットリストも一から考え直し、ライブの流れをビ
ーコンシアター用にもう一度組み直して考えてゆかねばならず、イライラしている
様子だった。なかなかセットリストが決まらず、スコセッシがストーンズ側にいい
かげんにしてほしいと愚痴をこぼすシーンも入っていて面白い。
珍しいストーンズのリハーサル風景がインサートされている。ミックがリーダー
シップをとってあれこれ指揮をとっている。ミックはやっぱりストーンズのライブ
を作っている辛辣なコンサートマスターなんだと分かる。
このライブは最近のストーンズが普段やっているライブとはすこし味が違ったも
のだ。映画のために企画されたライブという印象だ。だからミックは序盤、いつも
とは違うお客さんのムード、ノリを、ストーンズのグルーヴにノセてゆくのに本気
で奮闘していて、その姿がまたかっこいい。
ぼく自身もステージの上で歌って、たまに踊ったりもするから、エネルギーの消
耗の仕方は、なんとなくイメージできるのだけれど、それにしても、60歳を過ぎ
てあのように踊りまくってステージの上を走り回って歌い続けるミックの体力は、
信じがたいものがある。あのスタミナは一体なんなのだろうか。あの人はアンドロ
イドなのか。影武者がいるという噂は本当なのではないか。そう思いたくなってし
まう。
踊りながらステージで歌うという状況は、自分のペースよりもキツいペースでマ
ラソンしながら歌わなければならないようなものだ。ただ普通に歌を歌うのとはわ
けが違う。60代半ばにさしかかろうとするミックの年齢で、あの身体のキレ、呼
吸機能は、本当に奇跡としか思えない。普通の人間なら心臓発作を起こしているの
ではないかな。
歌詞を字幕付きで表示させて映画を観たのだけれど、ストーンズの歌詞というの
が、ぼくのイメージするロックの歌詞なんだよなあ。ミックは以前、なにかの賞の
祝辞でステージに現れた時、ジャン・コクトーの詩を引用していた。ミックの歌詞
は、恐らく文学、昔の詩をけっこう読んでいるのだろうなあと思わせる。ジョン・
レノン、ミック・ジャガー、ジム・モリソンは、不良っぽさがよくクローズアップ
されるけれど、ただの不良がコクトーやマザーグースやランボーやボードレールの
詩に共感する感性を持ち合わせているだろうか。興味のない人にとって、そういっ
た感性は必要ないと言われたらそうかもしれないが、そういった感性無しに「悪魔
を哀れむ歌」や、「ハートに火をつけて」や、「カム・トゥギャザー」などの曲は
生まれなかったのではないか。それらの曲がロック史に無かったら、なんて単調な
ロック史なのか。
ミックの歌詞は意味があまり良く分からないものがあったりするけれども、本来
歌詞は、意味ありきというのでもない。ポップスにとって歌詞の意味は大事である
部分もあるけれども、日本のものでも海外のものでも最近のポップスは、聴くほう
にも作るほうにも歌詞に意味をとってつけようとしすぎているような風潮があるよ
うに思える。文の意味を超えて、歌が、グルーヴが、メタファーが、なにか甘味な
魅力的なムードを伝えてくるのがロック、ブルースの面白味だ。意味を見つけよう
と意識して音楽を聴くほど、音楽そのものを味わえなかったりするものだ。
ゲストのバディ・ガイが最高だった。ストーンズのメンバーもバディ・ガイのパ
フォーマンスに敬意を表していた。キースはバディ・ガイとの競演直後、自分のギ
ブソンを彼にあげてしまった。ギブソンを渡されて戸惑う彼に、「それはもうあな
たのものだ」とキースが言う。バディ・ガイはずっと以前もヤバいムードギンギン
だったが現在もヤバいままだ。70歳を超えてなおあの鬼気迫る歌。「ブルースは
悪魔に魂を売り渡した者が歌う歌だ」という言葉どおり、まさに悪魔に魂を売り渡
した男の歌とギターだ。
天使のようなビートルズが短命だったのに対し、悪魔の歌を歌うストーンズは老
人になってもビンビンの現役だ。


calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< June 2018 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM