DIARY

逆の立場

ロマン・ポランスキー監督の映画「ゴーストライター」を見た。
大統領の自伝のゴーストライターが、謎の死を遂げ、
その後任になったユアン・マクレガーが、
前任者の死の謎を解いてゆくと、
それは隠された国家権力の陰謀に繋がっていた、
というようなストーリー。
中盤までゆっくり静かに物語が進むので眠たくなったが、
途中から展開が早くなって面白くなって惹き付けられた。

ロマン・ポランスキー監督は、
面白い映画を撮る監督ではあるが、
巨大権力者によって振り回され犠牲にされた者の物語にこだわっているように思える。
それは自らの強烈な体験(戦場のピアニスト)に基づいていることも分かる気がするのだが、
「国家権力の巨悪VS我々一個人の善」、
とか、
「巨大国家権力の悪を弱者である民衆の一個人が暴く」、
というようなある種の紋切り型の図式、
そういう設定は、
なにか昔の左翼のようで、
どこか古くさい感じがしてしまう。

といっても、
スパイ映画の設定のほとんどはそういう設定。
007シリーズのような娯楽を目的とした映画なら、
それはそれでいい。

「国家権力の悪VS一個人の善」を、
現実の問題として指摘する主題がストーリーの裏側に隠されてある作品であるならば、
それは今なにかシラケるというか、
そこになにかしらの不備を感じるというか、
それは過去の考え方であって、
現在ではなかなか通じなくなってきている考え方であるように感じてしまうのだ。

巨大国家権力対一個人という図式は、
国家が強かった時代のある種のロマンだったのではないか。
今の日本に生きる我々は、
震災の体験によって、
国家権力の組織がそんなに「大したものでもない」ことを、
知ってしまったような気がするのだ。

「大したものでもない」というのはつまり、
国家権力側の人間(=つまり国に関する仕事をしている人間)も、
我々と同じ一個人の集まりなのだ、
という認識を含む。

震災によって、
あらゆる人がそれぞれ状況の当事者である、
ということを実感させられた。
何をしなければならないのかを、
どの立場の人も考えざるをえない状況だった。

その延長として、
もし自分がその立場の人間だったら、
たとえばあのとき自分が東北に居たらどうだったろう、
逆に、国や行政に関する仕事をする立場に居たらどうだっただろう、
というふうに、
たとえ一瞬でもいろんな方向に思いめぐらすことを、
あの震災は僕達に強いたような気がするのだ。

もちろん僕個人が誰か他の人間の内面や立場を100%分かるはずなどない。
それは本人にしか分からない。
それは前提としてある。
しかし逆に、
「もし自分が逆の立場の人間だったら」という考慮がほとんどない、
どちらか一方的な態度は、
やはりどこか不備がある態度だと、
どこか短絡的な態度だと、
思えてしまうのだ。






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