DIARY

白いリボン




ミヒャエル・ハネケの映画「白いリボン」を見たのだが、
ずっとその余韻が後を引いている。
美しいモノクロ映像で、
ナチス誕生直前のドイツ片田舎の町のふつうの人々の欺瞞を描いたこの映画は、
稀に見る不快な映画でもあったのだが、
今のこの混乱時に現実味を持って迫ってくるすごい映画だった。

社会、政治、世相、人間の集団的な心理の有様が、
実は我々一人一人の生活(態度、様式)に直結しているということを、
この映画は描いている。
その生活(態度、様式)は、
その時代のある種の枠組みのようなものによって、
意識的にも無意識的にも規制させられている。

この間あるテレビで、
今のような混乱期には田中角栄のような強権者が望まれるという番組を見たのだが、
それは大間違いのような気がしてきた。

それなりのリーダーシップは必要だろうが、
(それなりのリーダーシップさえもないという状態が続いているという声も、
分からないわけではないが)
総理大臣が必ずしもカリスマである必要はないのではないか。
いや、カリスマなどもともと存在しないのだ。
人はやっぱり誰も似たり寄ったりなところがあって、
正しいこともしようとするし時々悪いこともする。
悪いという自覚があってやっているよりも、
さらに埒があかないことに、
「大間違いであるのに本人は正しいと信じてまったく疑わない」
ということだってそれこそいっぱいある。
それが集団的に起こることだってある。
人、もしくは社会は、
自分に都合がいいように解釈することからなかなか自由になれない。
この映画には、
そういう瞬間が描かれている箇所がある。

総理大臣という仕事は、
必ずしも特別なカリスマが必要であるわけではなく、
すこし極端な言い方をすれば、
やる気があれば誰でもがやれる仕事であるべきなのではないか。
そうでなければ、
いつだって独裁のような欺瞞に満ちた恐ろしい体制ができあがる危険性を、
その社会は孕むことになる。

震災、原発事故によって混乱期に入っているのかもしれない今、
必要なのは強権を行使できるカリスマではなく、
なんらかの枠組みの変更のように思える。
文明が別の段階に移行する時、
必ずなんらかの枠組みの変更が行われてきたように。
それに失敗すれば、
社会まるごと一気に、
力(もしくは暴力)のある方へ流れる可能性だってあるのではないか。
この映画を見ていたら、
なんだかそんなふうに思えてきちゃってさ。

あらためて手掛かりは自分の外の何処かにあるのではなく、
中にあるのだと思った。

こんな映画がパルムドールを獲るカンヌは、
やっぱりすごいわ!





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