DIARY

最近見た映画

最近何本か見た映画を忘れないように書いておく。

あまり期待しないで見た「ライフ・オブ・パイ/虎と漂流した227日」は、
最後にストーリーの種明かしみたいな展開があり、
見終わった後、
落語の「考え落ち」のように妙に余韻を残す。
人生の教訓がシーンのあちこちに喩えられてちりばめられている。
CGを駆使した映像も力がある。
なかなか面白い映画だった。

ぬいぐるみのクマに命が宿り主人公と親友になる「テッド」という映画も、
まったく期待しないで見たが、
実名でコケにしたり、下ネタもどぎつく、
ブラックジョークが溢れる一筋縄ではいかない大人向けのコメディー映画で、
予想に反して面白かった。
日本のこの手の映画なら、
間違いなく可愛いクマのぬいぐるみ映画で終わってしまうところだが、
そうではない映画になっているのはさすが。

タランティーノの「ジャンゴ」は話題になっていた通り痛快な出来だ。
ここのところ彼が描き続けている復讐劇。
あえてチープなカメラワークにしたり、
音楽も題字も映像も全部よし。
最高にかっこいい、くだらない映画。



映画「白熱」

「白熱」という70年代の映画があることは知っていたが、
それを見た。
ずばりB級映画の名作。
バート・レイノルズがバカワイルド!
カントリー風味のラロ・シフリンみたいな音楽も、
CG一切なしの生々しいカーアクションもかっこいい。
タランティーノの「デスプルーフ」はこの映画へのオマージュだったんだな。
ちなみに1949年製の「白熱」という映画もあるらしい。

なお、僕のアルバム「白熱」は、
それらの映画にインスピレーションを得てタイトルをつけたわけではない。
アルバムを作っている時はそれらの映画の存在は知らなかった。

最近度々ギターをコピーしているジョー・パスのアルバム"Virtuoso"から、
"How High the Moon"をやり始めているが、
やっと半分くらいまできた。
過去にコピーした"Here's That Rainy Day"と"Night and Day" は、
わりとゆったりした3分程度の短い曲だったが、
"How High the Moon"は5分以上あるフレーズ満載の難しい曲だ。
挫折しそうになっているが、
いつか弾けるようになると祈って呪文のように弾いてみている。



ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ

ジョン・ル・カレ原作のスパイ映画、
「裏切りのサーカス」を見てきた。
元MI6だったという、
つまり本物のスパイだったという作家ル・カレの作品。
007シリーズとは対極のリアルな本格的スパイ映画。
カーチェイスなどハリウッド的な派手なアクションは一切ないが、
取り巻かれた謎を紐解いてゆく主人公がクール。
その過程での神経戦、頭脳戦が素晴らしい。
ストーリーが複雑で一回見ただけではよく分からなかったところもあるが、
充分にサスペンスを堪能できた。
面白かった!
是非もう一回見たい。
監督は「ぼくのエリ 200歳の少女」のトーマス・アルフレッドソン。
「ぼくのエリ〜」も詩情あるいいドラキュラ映画だったが、
この作品でこの監督はさらに注目されるだろうな。
主演のゲイリー・オールドマンの抑えが利いた演技が最高。
キャスティングも衣装も素晴らしかった。
唯一残念なのが、
「ティンカー(鋳掛け屋)、テイラー(仕立て屋)、ソルジャー(兵隊)、スパイ」
というクールな原題が、
「裏切りのスパイ」という陳腐な邦題になってしまったことかな。



逆の立場

ロマン・ポランスキー監督の映画「ゴーストライター」を見た。
大統領の自伝のゴーストライターが、謎の死を遂げ、
その後任になったユアン・マクレガーが、
前任者の死の謎を解いてゆくと、
それは隠された国家権力の陰謀に繋がっていた、
というようなストーリー。
中盤までゆっくり静かに物語が進むので眠たくなったが、
途中から展開が早くなって面白くなって惹き付けられた。

ロマン・ポランスキー監督は、
面白い映画を撮る監督ではあるが、
巨大権力者によって振り回され犠牲にされた者の物語にこだわっているように思える。
それは自らの強烈な体験(戦場のピアニスト)に基づいていることも分かる気がするのだが、
「国家権力の巨悪VS我々一個人の善」、
とか、
「巨大国家権力の悪を弱者である民衆の一個人が暴く」、
というようなある種の紋切り型の図式、
そういう設定は、
なにか昔の左翼のようで、
どこか古くさい感じがしてしまう。

といっても、
スパイ映画の設定のほとんどはそういう設定。
007シリーズのような娯楽を目的とした映画なら、
それはそれでいい。

「国家権力の悪VS一個人の善」を、
現実の問題として指摘する主題がストーリーの裏側に隠されてある作品であるならば、
それは今なにかシラケるというか、
そこになにかしらの不備を感じるというか、
それは過去の考え方であって、
現在ではなかなか通じなくなってきている考え方であるように感じてしまうのだ。

巨大国家権力対一個人という図式は、
国家が強かった時代のある種のロマンだったのではないか。
今の日本に生きる我々は、
震災の体験によって、
国家権力の組織がそんなに「大したものでもない」ことを、
知ってしまったような気がするのだ。

「大したものでもない」というのはつまり、
国家権力側の人間(=つまり国に関する仕事をしている人間)も、
我々と同じ一個人の集まりなのだ、
という認識を含む。

震災によって、
あらゆる人がそれぞれ状況の当事者である、
ということを実感させられた。
何をしなければならないのかを、
どの立場の人も考えざるをえない状況だった。

その延長として、
もし自分がその立場の人間だったら、
たとえばあのとき自分が東北に居たらどうだったろう、
逆に、国や行政に関する仕事をする立場に居たらどうだっただろう、
というふうに、
たとえ一瞬でもいろんな方向に思いめぐらすことを、
あの震災は僕達に強いたような気がするのだ。

もちろん僕個人が誰か他の人間の内面や立場を100%分かるはずなどない。
それは本人にしか分からない。
それは前提としてある。
しかし逆に、
「もし自分が逆の立場の人間だったら」という考慮がほとんどない、
どちらか一方的な態度は、
やはりどこか不備がある態度だと、
どこか短絡的な態度だと、
思えてしまうのだ。





アリス・クリードの失踪



映画「アリス・クリードの失踪」を見た。
誘拐犯二人と人質を描いたサスペンス密室劇。
ストーリー展開で、
見る者たちをあっと言わせてやろうという作者の意図がミエミエな感じがするのだが、
なかなか面白かった。
イーサン・フォークの映画「テープ」みたいに三人しか演者がいない。
密室という設定も同じ。
こういう映画を見ながら、
登場人物たちのストーリーがどうなるかを予想するくせが最近ついてきているのだが、
今回は予想した展開が当たった。
というか、このラストが、
映画のエンディングとして一番形になるだろうな、
と僕にさえ予想できてしまうところが、
この映画の「あともう少し」なところか。





ドアを外したキャデラック




一度見た映画「キャデラック・レコード」を、
リトル・ウォルターが好きになったんで、もういっかい見た。
演出過多が気になる映画だが、
彼がどういう人物だったのか、
すこしかいま見れたような気がする。
映画によると、
彼はいつでも銃をぶっ放しかねない人だったらしい。
豪華なキャデラックを、
暑いという理由でドアを全部外して乗っていた。
レコードのジャケや、
Youtubeで見れる彼の顔には、
アザや傷跡がついている。
ずいぶん小柄な人だったから、
虚勢を張って生きていたのか。
ハーモニカはあんなに端正で垢抜けているのになあ。





生き残るための3つの取引



「生き残るための3つの取引」
という韓国映画を見たのだが、
これは久々に文句なしに面白い映画だった!
各俳優のテンションの高さ合戦みたいな演出に笑った。
正義役が悪を行い、悪役が善を行う設定など、
一筋縄ではいかない皮肉な物語はラストに向かってどんどん縺れてゆく。

正義と悪が相対化されたような描き方が所々にされていて、
これが物語に深さと現実味とを与えている。
それでいて徹底的に派手なエンターテイメント映画でもある。
ここのところ見た映画では一番面白かったかもなあ。
脚本は「悪魔を見た」のパク・フンジョン。
このリュ・スンワン監督は要注目だと思った。
韓国映画はやっぱりすんげえなあ。





「悪魔を見た」を見た。

映画「悪魔を見た」を見た。
復讐の鬼と化したイ・ビョンホンと、
鬼そのものであるチェ・ミンシクとの対決。
演技による凄まじい格闘。
「怪物と戦う者は自らが怪物と化さぬよう心せよ。
お前が深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込んでいるのだ。」
というニーチェの言葉があまりにもしっくりくる。
暴力がこれでもかと盛り込まれていて、
痛みに満ちていて、
血まみれの残酷極まりない物語でありながら、
どこか透明感がある。
韓国の映画は痛い映画が多いなあ。





夏の陽の傾き 知らなすぎた男

久しぶりに夏らしい陽射しの東京。
ただ、どことなく残暑の雰囲気あり。
7月の真上から降り注ぐ真っ白い陽射しではなく、
ほんの少し斜めから降り注ぐ黄色い陽射し。

あたらしく購入した機材や楽器をセッティングし、
仕組みをチェックする。
改装したスタジオで、
どのように音を出すか考える日。
あたらしい曲を作るための準備が、
少しずつ整い始めている。

ビル・マーレイ主演の映画「知らなすぎた男」を見た。
よくこのアイデアを本当に映画化したものだな、
と思ってしまうほど下らなくて逆にすごい。
強引な展開ばかりなんだけど、
ビル・マーレイのふざけた演技にぐいぐい惹きこまれ、
つい最後まで見ちまった。
知らない人が一番強いというお話。
なかなかイケてた。







白いリボン




ミヒャエル・ハネケの映画「白いリボン」を見たのだが、
ずっとその余韻が後を引いている。
美しいモノクロ映像で、
ナチス誕生直前のドイツ片田舎の町のふつうの人々の欺瞞を描いたこの映画は、
稀に見る不快な映画でもあったのだが、
今のこの混乱時に現実味を持って迫ってくるすごい映画だった。

社会、政治、世相、人間の集団的な心理の有様が、
実は我々一人一人の生活(態度、様式)に直結しているということを、
この映画は描いている。
その生活(態度、様式)は、
その時代のある種の枠組みのようなものによって、
意識的にも無意識的にも規制させられている。

この間あるテレビで、
今のような混乱期には田中角栄のような強権者が望まれるという番組を見たのだが、
それは大間違いのような気がしてきた。

それなりのリーダーシップは必要だろうが、
(それなりのリーダーシップさえもないという状態が続いているという声も、
分からないわけではないが)
総理大臣が必ずしもカリスマである必要はないのではないか。
いや、カリスマなどもともと存在しないのだ。
人はやっぱり誰も似たり寄ったりなところがあって、
正しいこともしようとするし時々悪いこともする。
悪いという自覚があってやっているよりも、
さらに埒があかないことに、
「大間違いであるのに本人は正しいと信じてまったく疑わない」
ということだってそれこそいっぱいある。
それが集団的に起こることだってある。
人、もしくは社会は、
自分に都合がいいように解釈することからなかなか自由になれない。
この映画には、
そういう瞬間が描かれている箇所がある。

総理大臣という仕事は、
必ずしも特別なカリスマが必要であるわけではなく、
すこし極端な言い方をすれば、
やる気があれば誰でもがやれる仕事であるべきなのではないか。
そうでなければ、
いつだって独裁のような欺瞞に満ちた恐ろしい体制ができあがる危険性を、
その社会は孕むことになる。

震災、原発事故によって混乱期に入っているのかもしれない今、
必要なのは強権を行使できるカリスマではなく、
なんらかの枠組みの変更のように思える。
文明が別の段階に移行する時、
必ずなんらかの枠組みの変更が行われてきたように。
それに失敗すれば、
社会まるごと一気に、
力(もしくは暴力)のある方へ流れる可能性だってあるのではないか。
この映画を見ていたら、
なんだかそんなふうに思えてきちゃってさ。

あらためて手掛かりは自分の外の何処かにあるのではなく、
中にあるのだと思った。

こんな映画がパルムドールを獲るカンヌは、
やっぱりすごいわ!





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