DIARY

ポップス論

この間とあるラーメン屋で聞こえてきたポップスなのだけど、
自分たちが作る曲で、
聴く人をものすごく感動させてやろうという意気込みが、
強力に満ちあふれていて、
ぼくは引いてしまった。

感動させようと必死になっている作品に出会うと引いてしまうんだ。
人を感動させようとして作品を作るのってなんかどこか違う気がするんだ。
まったく感動させようとしてない作品に感動することがあるんだ。
じゃあどうやって作品て作られるんでしょうね。へへへ。

この辺りこのことは吉本隆明さんがいろんな場面で説明していた。
吉本さんがもうこの世にいないってのは、なんだか寂しいなあ。





ノッてけ!

以前に見た吉本隆明さんの講演をテレビで再放送していた。
あの吉本さんの講演は見に行ったし、
あとで放送されたテレビも見たのだけれど、
昨日もう一度見てあらためて吉本さんの笑顔や眼差しが胸に迫るとともに、
「関係の絶対性」の説明が自分に響いてきた。

そう言えば、夏目漱石の小説は、
「坊ちゃん」、「三四郎」、「それから」、「門」など、
「関係の絶対性」に翻弄される人間たちばかりが描かれていたなあ。
「こころ」に至っては、
その悲劇を容赦なく描いている感じだ。

明治の時代に、
「自由」をふつうの人々が手に入れることができるようになった時代に、
いち早くこういうテーマで小説を書いた漱石はすごかったんだなあ。

 言語芸術はその人の宿命をあらわす。

 自己表出と指示表出と、
 その作家の持つ特性、個性、すべてが合わさり、
 その作家自身の必然性(悲劇、宿命)から表現された作品が、
 「開かれた普遍性」を持つ。
 そこで初めてその作品の芸術的な評価が決まってくる。


ポップスを書いてきた自分にとって、
納得のいく言葉。
表現を、作者を、丸裸にする言葉だな。

 (指示表出で)コミュニケーションする機会が多い社会になればなるほど、
 経済的価値が重要な社会になればなるほど、
 そこに生まれる作品の芸術度は薄まってゆく。

 ファンクショナリズム(機能主義)は、
 マルクスの時代くらいから始まっていて、
 今も時代を席巻している。

マルクスを評価しながらも、
マルクスの間違い(機能主義の間違い)を指摘し続けた吉本さん。

その意志はぼくたちに引き継がれたんだよな。

そんなことを思ってたら、
なんだか頭が冴えて眠れなくなり、
始発電車に乗ってアトリエへ行って曲作りの続きをした。
アトリエに着いたら寝てしまうかなと思いきや、
仕事が捗って作りかけていた曲がなんとか最初の形になった。

新しい機材の調子が良い。
今までよりも早く曲が形になる。

眠くてたまらなくても、
ノッているときというのは、
頭が回転して止まらなくなるから、
こういう時を利用して曲作りを一気に進めることがある。
しかしあとがきつい。
今日はもうヘトヘトで、
ジョギングも筋トレも珍しく中止。

この調子で今週も曲をノッて書くぞ!




25時から

今週も曲をいろいろ試す。
アイデアを片っ端から試してゆく、
機材のトラブルと格闘しながら、
ガリガリと曲を形作る。
少しくらい機材トラブルがあった方が、
機材の調子が良すぎるよりも、
頭の回転が止まらなくてよいかもしれない。
ずっと前から、
機材のトラブルは曲作りで欠かせないイベントみたいになってる。

吉本隆明さんの「言語にとって美とはなにか」を少し読み返した。
若い頃と違って、
今は少し分かりながら読み進むことができる。
しかし全部読むには、
仕事しながらだとなかなか時間が取れない。
仕事を始めるといつも時間がない。
曲を作るまとまった時間さえもっと欲しいくらいなのに、
本を読むまとまった時間は尚更作りにくい。
だからいつも夜が遅くなる。

24時間が生活の時間ならば、
25時からどう時間を使うのか。
それがいつも難しい。




吉本さん。

もうお年だったし、
いつかは来るだろうと思っていた。

ツイッターに流れてくる、
嘘の考えをヒステリックに語り人を煽る者たちに、
腹が立って、
いらいらして、
そして吉本さんのことを思って、
昨日は日記に吉本さんのことを書いた。
その30分後、
吉本さんの訃報を知った。
まともなことを身体を張って言う人がいなくなって、
不安になるのもあるが、
こんなに自然に悲しい気持ちが襲ってくるとは思わなかった。
ぼくは吉本さんの著作を少し読んだり講演に行ったり、
録音された講演を聴いたりはしていたが、
個人的にお会いしたことは一度もない。
個人的にお会いしたことがない人なのに、
これほど自分が悲しい気持ちになるのが不思議だ。

吉本さんならこういう言い方は間違いだと言うだろうが、
重い死だ。
いや、近い死、なのかもしれない。
吉本さんに、
「死に重いも軽いもない」
とたしなめられそうだが、
でも本当に吉本さんが亡くなって、
実際にそう感じているのだから仕方が無いじゃないですか。




本との出会い

自分は若い頃に吉本隆明さんの本に、
偶然出会っておいてよかったと思う。
挫折した本もけっこうあるし、
理解できていないところはいっぱいあるけれど、
それでもよかったんじゃないかと思う。

吉本さんの本に接することで、
「考えることのプロが、苦闘して考えている様子」
を端から覗いた気がする。
「考えの筋道の立て方」、
「考えるとはこういうことだ」ということに、
いつのまにか接していたように思う。
吉本さんの本を読んで、
「どう考えればいいのか」ということの、
初歩的なこと、
最初の基本を知ることができた気がする。

「考えの筋道の立て方」は、
自分で勝手にできるようになるものではないと思うようになった。
楽器の演奏の仕方や、
ボクシングのやり方、
バイクの乗り方など、
やはり師匠、先生となる人がいて、
そういう人に習った人は、
正しく演奏や試合や運転ができたりする。
「ものの考え方」というのも、
同じなのではないかと近頃思うようになった。

そんなことを書きながら、
いま自分は「考えの筋道の立て方」が、
100点満点できている、
とはとても言えない。
相変わらずまだまだ精進しないといけない馬鹿者である。
でも、
ここまでは分かる、
ここからは分からない、
ならばこういうことが言えそうだ、
という区別は前よりもできるようになったのかな。

とにかく、
自分は吉本隆明さんの本を何冊か読んでおいて、
良かったなあと思ったんだ。
あと、
ニーチェの「ツァラトストラかく語りき」も、
シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」も、
無理して読んでおいてよかったなあと思う。



追記

この日記をアップして30分後に吉本隆明さんの訃報を知りました。
非常にショックを受けています。
心よりご冥福をお祈りします。




丈夫な親鸞

吉本隆明さんの「親鸞」の本を読んでいる。
親鸞という人は90歳くらいまで生きたということだが、
これは当時の平均寿命や、
大飢饉や2度の震災や戦争があったりした彼の生きた時代ことを考えると、
驚異的に長生きした人だ。

親鸞という人を知るほど、
おそらくだいぶ体を鍛えていたか、
節制していたか、
丈夫な人だったのではないかと思える。
妻帯して肉を食い厳しい仏教の修行を否定するなど、
徹底した破戒僧でありながら、
やはり若い頃に修行をしていた人でもあり、
実は自らを厳しく律することに長けていたのだろう。
生きているうちにあれほど住むところを変え、
移動して生きた人だから、
自然に体を酷使せざるをえない毎日だったのかもしれない。
当時のお坊さんの実際の仕事であった、
土木、灌漑工事などを移住する先々で発案し人々に指導しながら、
自らも進んでそれを行ったらしい。

親鸞という人の「考え」はなにか肉体的な感じがする。
肉体をフルに使って考えた「思想」のように思える。
著書「教行信証」で長い時間をかけて先人の知恵について考え抜き、
それと同時に、
いまよりも大変厳しかった当時の現実の生活の中で、
自らの体をフルに使って考えた「思想」なのだろう。



書くことがあるけどない日

今日は書くことが浮かばない。
というのは嘘で本当は逆に、
急に思いついたことが膨らんで、
でもそれはまったく自分の手に負えるようなものではなくて、
まいったな、という感じなんだな。

先日ツイッターで知り合った芦田直宏さんのブログに、
ぼくも聴きに行った吉本隆明さんの講演のことが書いてあって、
分からないところもいろいろあるのだけれど、
ずっと長いことぼやっとして分からなかったことが、
謎解きのヒントのような言い方で説明されてある箇所があって、
興奮してしまった。

それでさっきから、
「大衆の原像」は「意味が超越的であること」と似ていることなのか?
という疑問が膨らんできたり、

「誤解を恐れずに言えば、自己表出が「伝わる」というのは(これは矛盾です)、
自己表出の〈類〉性が「伝わる」ということです(もっと矛盾です)。
この矛盾が〈悲劇〉です。...」
という文を何度も繰り返し考えてしまっている。
大衆音楽をやってきた自分にとってなにか身に覚えがあるような気がするのだ。

でもこれらは自分の身の丈以上の考えだろうし、
この日記には書けないなあと思って、
他のことを書こうとしたのだけれども、
他のことはさっきからなにも思いつかないので、
仕方なくこの状況を正直にいま日記に付けたのだった。





詩で会話

吉本隆明さんの「50度の講演。喩としての聖書-マルコ伝」を聴いた。
かなり面白かったんだな。

前半は思想書としての聖書について。
聖書が鋭く洞察している人間性についての話。
聖書に描かれている場面を幾つか挙げて、
聖書が書かれた時代から何千年と変わらない人間性について読み取って行く。
純文学小説を読んでいるように面白い。

後半は喩(ゆ)としての聖書。
言葉の面から理解すると、
聖書に書かれている数々の「奇跡」は、
「暗喩(メタファー)の一種」だと考えられると吉本さんは言う。
これを聴いてぼくは興奮した!

言葉は「喩」から始まった。
始め人間は、
虚喩という喩を言葉として使っていた時期があるはずで、
次に暗喩が生まれ、
その後新しく直喩が生まれた、
と吉本さんは言う。

「きみの目は細い」という直接的な言い方は、
実は最近のものなのだ。
直喩は「きみの目は象のように細い」という喩え方のことをいい、
暗喩は「きみの目は象だ」という喩え方のこと。つまりメタファー。
暗示的であり、詩の表現に使われる。

直喩よりも暗喩の方が古い、というのがポイント!
聖書には古代人が使っていた暗喩の痕跡が残っている。

虚喩について吉本さんは講演後の質疑応答であっさりと語っているが、
大変謎めいていて興味深かった。

古代人は暗喩、つまり詩のような表現を、
当たり前の言葉としていて使っていた。
言わば芸術で会話してコミュニケーションしていたということか。
センスがよく高級な暗喩は、古代人に相通ずる言葉になりうる。
芸術こそが人間の本来の言葉なのだということになる。
これはとてもワクワクする話だ。
またしても目から鱗が落ちた。




2009.5.28(木) 

 昨日は先日購入した糸井重里さんの「ほぼ日」からでている吉本隆明五十度
の公演の「宗教と自立」を聴いていた。あまりにも量がいっぱいあるから、ど
れから聴いていいのか分からなかったのだけど、とりあえず「宗教と自立」を
聴いた。厚くて固くてなかなか掘り進まない岩盤を、吉本さんの思考のドリル
が少しずつ掘り進んでゆく感じ。ガリガリと音が聞こえてくるようだ。
 吉本隆明さんの本は、吉本好きな知人が近くにいたせいで二十年くらい前か
ら少しずつ読んできていた。やさしめの本を読んだり、難しい本は何度かトラ
イして途中で挫折したりしてきた感じだ。だからぼくは吉本さんの考え方のい
ろんな端っこの部分を一応知ってはいた。吉本さんが考え抜いてたどり着いた
結論の上っ面の部分の欠片のようなものを知っていた程度で、それがどういう
本当の考えから導かれたものかは、ちゃんと理解できていたとは言えないと思
うし、今もちゃんと理解できてはいないのだろうけれど、昨日その講演を聴い
て、理解が進んだように思ったのだ。
 昨日聴いた公演は、今まで自分で読んできた吉本さんの考えの欠片たちの、
ある一本のラインを繋げて、吉本さんにグッとその奥のものを見せられたよう
な感じで、今まで知っていることのもう少し根元のほうにある「考え」を知る
機会だった。言い方は悪いかも知れないけれど、ショックと言えるような体験
だった。吉本さんの思考過程のドリルに付き合って疲れたけれど、いい感じの
疲れだな。

2009.1.6(火)  

昨日録画しておいて楽しみにしていた吉本隆明さんのテレビ番組を観た。去
年の夏に見に行った「芸術言語論その一」、3時間以上に渡る講演の後半、吉
本さんの声がぼそぼそになってしまってよく聞き取れなかった部分が、マイク
を通してクリアに録音されていて、あの状態でも吉本さんはさらに興味深い話
をしようとしていたことが分かった。講演の後半、声はかすれてだんだんと小
さくなっていったけれど、話の内容はしっかりしたものだったんだな。講演の
最後のほうの、途切れ途切れに聴こえた吉本さんの言葉がかえって、吉本さん
の自己表出を目の当たりにしているような感じで、まるで舞台かコンサートを
観たように感動したのだけれど、その部分がちゃんと番組に記録されていて、
もう一回感動した。吉本さんの考えてきたことをあれほど分かりやすく伝えよ
うとした番組があったかな。
ぼくは19歳でオリジナル・ラヴの前身となるバンドを始めてから、オリジ
ナル・ラヴのやっている音楽は、「ポップス」なんだと言ってきた。その「ポ
ップス」という言葉は、ぼくとしてはなにか舌足らずな感じで、もう少し別の
意味を含ませた「ポップス」なんだけどなあとずっと思ってきていた。それは
もちろんヒットチャートを駆け上がろうとする「ポップス」なのだけれども、
いわゆる売れ線の、ヒットチャートだけの為に作られた「ポップス」ではなく
て、時を経ても色あせないと言ったらいいのか、音楽的に深いと言ったらいい
のか、あるジャンルの中だけで成立する良さではなく、ジャンルを取っ払って
その音楽自体として面白さが分かるようなと言ったらいいのか、上手く言えな
いのだけれども、なにかそういう意味合い、質感、を含ませた「ポップス」だ
った。今だったら「普遍的な音楽」だとか、「芸術的なポップス」とあからさ
まに言えそうなところなのかもしれないけれど、でもまだやっぱり言いきれな
い感じがあるかな。ましてオリジナル・ラヴを始めた頃の20年前はまだ自信
がなかったし、芸術のことがよく分からなかったし、なにか今よりもさらに「
芸術的な」とはっきり言えないような雰囲気だった。それにぼくの目指す音楽
は、「いかにも芸術やってます」というような、「自分のやっていることは特
別で素晴らしいことなんだと故意にアピールするような音楽」ではなかった。
もっとありふれた、誰もが共感できる、欲を言えば音楽をとくに趣味としてこ
なかった人にも「あれっ?」と思ってくれるような音楽だった。具体的に言う
と、ビートルズや、バート・バカラックやエルヴィス・プレスリーやセックス
・ピストルズのような音楽だった。
今日の吉本さんの番組を見て、芸術とは、自己表出と自己表出が出会うこと
であって、従ってその自己表出は普遍性を持ったものであり、その価値はお金
に換えられるような価値とは違う価値があるのだ、とおっしゃっているのを観
て、ぼくがずっと言い倦ねてとりあえず使っていた「ポップス」という言葉の、
曖昧ですっきりしない部分、でも触れようとして手をのばしてきた部分を、鮮
やかに表現していただいたような気がしたんだな。


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