DIARY

才能と情熱

僕には才能はあまりないと思う。
情熱ならそこそこあるかも。
才能のある音楽より、情熱のある音楽が好きだ。
人は才能よりも、
情熱と感受性に惹き寄せられると思いたい派なんだな。

 

だから僕が惹かれるアーティストは天才的な人ではなくて、情熱的な人。
スマートな人ではなくて、一生懸命な人。

 

音楽の才能がありますね、と言われるより、
音楽の情熱がありますね。と言われる方が嬉しい。
嬉しいというか、当たっている感じがする。
むしろ実際は、才能が無いなあと落ち込むことの方が多い。
だから練習したり試行錯誤したり、

なんだかんだするんでね。

 

才能がありますね、と言われてしまうと、
僕がそれまでやった練習やら試行錯誤やらを、

無かったものと評価されてしまうようで、
ちょっと寂しい感じがする。

 

僕もそこそこ練習をしたし、
曲は子供の頃からずっと作り続けてきた。
それは才能があったわけではなくて、
ただ好きでずっとやり続けてきただけ。
曲作りや音楽のことに夢中になっていた。

 

才能は、不可能を可能にしてくれなかった。
練習やら試行錯誤やらをする情熱が、
時々、不可能を可能にしてくれた。

 

 

 

 

 

 

 


真面目さと正直さ

スカパラの谷中敦が「真面目さと正直さ」についてツイートしてるのを読んだら、
いろいろまとまらないイメージのようなものが浮かんだので、
まだ考えの途中のような状態をとりあえず書き留めておこうと思った。

真面目だなあと人に言ってみたり。人から言われたり。
真面目っぽくなさそうな人に実際会ってみたらすごく真面目だった、
ということもよくある。

でも、「真面目」は、
誰もが共有する「一般的な真面目の基準」と、
「真面目」の量も内容も種類も人それぞれ違う「個人的な真面目の基準」の、
二種類があるように思える。

或る人に会うまでは分からなかったけれど、
その「或る人」に会って話すと、
その人なりの「真面目さ」の基準が分かって、
「ああ実はこの人も真面目な人だったのだ」となる。

ルーズに生きたい人はルーズに生きることに関して真面目だったりする。
殺し屋は殺し屋なりの「真面目さ」があるのかも。

夢を実現したスポーツ選手のような人ほど、
その人が作ったルールに関して真面目なのかもしれない。

でも人生には、
それまで生きてきた「個人的な真面目の基準」が、
自分に合わなくなったことに気づいたり、
その真面目の基準に修正を加えなければならないことに気づいたり、
その真面目の基準が、
実は間違いかもしれないと気づいたりすることが、
稀にある。

そこに「正直」という基準で判断するべきことがあるのかも。
どれが、なにが、本当に正直か。
本当に「正直」にならなければ生きていられないこともある。
本当に正直でいることが、すごく勇気が必要な場合もある。
その「正直」が、それまでの「個人的な真面目の基準」と対立することだってある。

そしてさらにその正直は、
「一般的な真面目の基準」とさえ対立することさえある。
「一般的な真面目の基準」が本当に正しいか、
疑わしいことだってあるかもしれない。

自分にとっての「真面目」を信じて生きたり、
時々その「真面目」に、
嘘をついたりしながら生きたりするのが、
普段の生活なのだろうけれど、
真面目は、
その人にとってのその時の「真面目」であって、
その自分にとっての「真面目」を疑っておく視線は、
心の物凄く端っこのあたりに、
できれば持っておくべきなのかもなあと思ったりする。

どんなに「真面目」になりきっても、
「不真面目な部分」は残るし、
残って良いものだし、
残さなければならないのかもしれない。
「真面目な自分」を監視する「不真面目な自分」は、
ほんの少し居たほうが良いのかもしれない。

と、ここまで書いてきて、
あ、でもこの「一般的な真面目の基準」と、
「個人的な真面目の基準」って、
吉本隆明さんが言っていたことの焼き直しなのかもしれないなあと今思った。

吉本さんは、この「一般的な真面目の基準」と、
「個人的な真面目の基準」は、
対立し、逆立する場合があると言っていた。
そしてこの二つの真面目の基準の間に、
男女の関係、師匠と弟子の関係の間にあるような、
「対になるような形をした真面目の基準」の段階が存在していることも言ってた。

例えば、或る人が、
「あいつは不真面目な奴だ」と決めつけて、
その人を他人数で攻撃することや、
「あいつは真面目な奴だ」と決めつけることに対して、
なにか違和感を感じることの発端は、
この吉本さんの考え方に影響されていることが多いのかもしれないなあと、
いま思った。

その人個人にとっての「真面目の基準」、
「男女間に働くような対の形の真面目の基準」、
「村や街やある集団の中に働く真面目の基準」、
国や宗教みたいな「もっと大きな集団の真面目の基準」のように、
「真面目」には、大きさ、広がり、段階、があるのだろうな。


 

感動と煽動

感動は創り出すものなのか、
それとも自然に現れてしまうものなのかは、
曖昧になりがちなところだ。
人の為の作品なのか、
自分のための作品なのかで違ってくるポイントだ。
よりリアルな、まっとうな、深い感動は、
自然に現れてしまうものの方だとは思うけど、
実際にはその両方を作家たちはやりくりしながら、
うまくいったりいかなかったりしているのではないか。

スポーツ観戦の感動が羨ましいのは、
その感動が常に選手当人のものであって、
その感動を見た人が同調して感動しているという構造をしているところだ。

しかし、そういったことに気をつけながら作品に接したり、
作っていったりしていきたい。
扇動的な感動作品かどうかに気づくために。
そうでないと、
感動と陶酔の沼にいつの間にかはまって、
感性が大きくズレてしまう気がする。






 

青春の曲

去年の暮れから取りかかっていた新曲数曲のレコーディングがほぼ終了して、
ミックスダウンの作業を残すのみとなった。
正月をほとんど返上してこの仕事に取りかかっていたので、
やっとお正月がきた気分だ。

新曲は、いろんなミュージシャンといろんなスタジオでレコーディングして作られた。
躍動感、疾走感ある、かなりポップな曲。
時間と労力をフルに使って贅沢な仕上がりになったと思う。

僕が10代の頃によく聴いていた曲を、
今の自分がやってみるとこういうふうになるのかという感じ。

僕は普段はしょっちゅう料理をするというわけでもないが、
料理は良い気分転換になるので、
歌詞を書く時はよくやる。

数日間誰にも会わずひとり部屋で歌詞を書いて、
行き詰まると小豆を煮て気分転換した。
冷蔵庫に僕が作った餡子のストックが切れることはなかった。

僕は20代の頃までは、
大人ぶった背伸びしたような曲を書こうとしていたのかもしれない。
時は巡り巡って今頃青春の香りがする曲が書きたくなった。
青春として今を生きようとすれば、
現在がいつでも青春になる気がする。
そんな新曲が出来ました。力作です!
お楽しみに!



 

ジャズと孤独

ひとりソウルツアーも11本を終え、
ようやくステージの上で少し落ち着いていられるようになってきた。

今回の「ひとりソウル」は、
今までよりジャズのテクニックを多めに使っている。
それなりに難しいことをいろいろやっているが、
その難しさはなかなか理解されにくいだろうと思う。
なぜなら自分でもようやくその難しさが分かり始めたところだから。

ジャズはテクニックが高度になればなるほど、
それを知らない人に伝わりにくくなってゆくという面をもっているのかな。

ポップスは、追求するほどに人間の普遍性に近づいてゆくという面があるが、
ジャズは、追求するほどに、
普通に人が音楽を楽しむ感覚から遠ざかってゆく面があるのだろうか。

ジャズは、追求するほどに醸し出される音楽が美しくなってゆき、
演奏者はその面白さを実感できるようになってゆく反面、
リスナーから理解されにくくなってゆくという面を持つ音楽なのだとしたら、
ジャズは孤独な音楽なのだなあと思う。

よく、歴史に名を残す前衛ジャズミュージシャンが、
酒や薬に溺れて行きがちなのは、
自分のジャズを追究することによって、
音楽の美しさが高まってゆくのに、
それがなかなか理解されず、
運悪く評論家にも正しく評価されないために、
その孤独を紛らわしているのではなかろうか、
などと勘ぐったりしてみる。

 

リバティーンズ"Anthems for Doomed Youth"

最近買った何枚かのアルバムのうち、
リバティーンズの新譜"Anthems for Doomed Youth"は繰り返し聞きたくなるアルバムだった。
もうずっと前にスタッフから彼らのファーストアルバムを聴かせてもらって、
その時もいいサウンドだなと思ったのだが、
それきり聞き込むことはなかった。
しかしこの三枚目のアルバムが非常に良かったので、
ファーストアルバムを辿って聴いた。
久しぶりにこういう音もいいと思った。
僕が知っているパンクの音はこんな感じだった気がする。
いわゆるロックらしさとか、
メタルとか、
ハードコアやオルタナティヴ、
ミクスチャーとも違う、
混じり気のないパンクの音。
そんな音を聴いて、
僕は曲の作り方を思い出したような気がした。

リバティーンズのような音は一時の閃光のようなもので、
若い時に一度やってみようとすればいいものだと思う。
その時にしか生まれない奇跡のような瞬間がある。
その時にしか生まれないからこそ、
そのサウンドは説得力がある。
それでも99パーセントの人々はリバティーンズのようにはうまくいかないだろう。

年齢とともに、
時とともに自分を含めた全ては変化してゆき、
もちろんサウンドも変化してゆく。
変化しなければ、
病気になったり、
解散したり、
命を落としたり、
形だけのことをやるようになってゆく。

巨星が死を迎え爆発して閃光し、
その後徐々に暗くなりながら残光を放つ。
その美しさ。

リバティーンズの新譜"Anthems for Doomed Youth"は、
そんな青春の美しい残光が見えるアルバムなのかもしれなくて、
僕はそこに惹かれたのかもしれない。
ルーズで拙く時に荒々しい演奏でありながら、
聴く者を感傷的にさせる繊細な音楽だ。

リバティーンズを聞いて曲の作り方を思い出したけれど、
僕が今からあのようなサウンドをやるはずがない。
自分が若かった時だってその道を選ばなかったのだから。
僕は当時、パンクがカリソメの音楽だと理解した。
だからこそ、
その儚い輝きが眩しくて、時々憧れを感じるのだ。



 

灯台下暗し

自分が昔よく聴いた海外の歴史的名盤といわれるレコードを、
ターンテーブルにのせて聴いてみる。
確かにいい曲だが、
昔のように圧倒的にいい曲には聞こえない。
ある一定のコードの流れ、
メロディの流れが以前の自分の好みだったのだなあと思う。
昔よりもコードの流れのバリエーションをたくさん知るようになった今、
遠い楽園に憧れるように、
散々聞き込んで曲の構成を学んだレコードからは、
意外性を見つけるというよりも、
音楽を確認するような感じで聴いてしまう。

しかし最近は、
自分が見過ごしてきた日本やアジアのアーティストのポップミュージックに、
意外性を見つけることができて面白い。

名前はなんとなく聴いたことがあるが、
ちゃんと耳にしたことはなかった日本のアーティストの曲を、
あるきっかけで初めて聴いて、
それが凄くいい曲で、
なんで今まで自分はこういう曲を聴いて来なかったのだろうと、
反省する機会が最近多い。
自分の幅が広がったのかもしれない。

海外のアーティストよりも
日本の、
わりと自分の身近にいる人の曲をコピーする方が、
刺激的で楽しい勉強になっている。





 

水曜歌謡祭

フジテレビ系生放送音楽番組「水曜歌謡祭」が終了した。
自分のような癖の強い好き嫌いの分かれる歌を、
あのような豪華な歌番組に抜擢していただいて、
本当にフジテレビのスタッフの方々には感謝しかない。
この番組に出演しなければ、
一生共演することはないだろう素晴らしい歌手の方々と共演することができて、
大変好運な機会に恵まれた。
バンドマンである自分があのような場所に立つことによって、
今まで見えていなかった自分の荒さがよく見えた。
歌に関してヒントや発見がいろいろあり、
大変勉強になった。
生放送一発勝負、
毎回緊張感のある仕事で、
終わってしまって肩の荷が下りた分、
寂しさもある。
現場はいつも活気があって楽しかった。
この番組のおかけで自分の幅がまた広がったように思う。

フジテレビスタッフの皆様、
番組をご覧になって下さった皆様、
本当にありがとうございました!


 

新しい曲ができた。

新しい曲ができた。

8月頭に木暮晋也と、
お互いに8月中に一曲作ろうと話していた。
僕が一曲できたぞと彼に言うと、
木暮も一曲作ったと返してきた。

曲調を二人で説明し合って笑った。
二人ともある意味似た方向の曲を作っていたからだ。

曲を作っていていまさら思ったのだが、
ポップスを作るなら、
曲がある程度出来るまで、
コンピューターやシーケンサーを使わず、
できるだけ頭の中やギター一本でイメージをふくらませた方が良い。

シーケンサーで打ち込みを始めると、
アレンジの作業に入ってしまい、
作曲の焦点がぼやけて迷走してしまうことが多い。

特にポップスの場合は、
作曲と編曲は全く違う作業なのだ。

こんな基本的なことを、
なぜ忘れがちになるのだろう。

暑い夏が過ぎ、
涼しくなる9月以降は曲を作るのにいい季節。

13歳から曲を作り始めて、
いまだに新しい曲ができることが嬉しいと感じる。

いいものに出会って良かった。


 

歩いてゆく

かっこわるいなあと自分のことを思う時がよくある。
ああ馬鹿だなあとよく思う。
自分はオリコウサンだなと思ったことはほとんどない気がする。
しかし、岡本太郎さんの本を読むと、
ああ自分は馬鹿だと思っていたが、
馬鹿さ加減が全然足りていなかった、
と思う。

それでも時々、
もっとスマートな、
オリコウサンな生き方があるような気がする時がある。

若い時は、
経験を積めば人生を上手く生きる術に長けるのではないかと思っていたが、
そんなに甘いものではなかった。
というより、
スマートな、
オリコウサンな生き方などおそらく無いのだ。
しかし、
より幸福な生き方というのは、
どうやらあるらしい。

馬鹿は止まらない。
しかし馬鹿でいいやとは思わない。

羞恥心で焼けた鉄のようにからだじゅう真っ赤になって、
それでも前に歩いていって、
それは意志の力だけではなく、
意志と感性と知性が互いに反発して、
ぶつかったりして血が出たりとかしながら、
間違った道とか正しい道とかを歩いたり行ったり来たりしながら、
出来るだけ逃げ出さずに、
負けばっかりでしゅんとしたり、
時々勝ったりしながら、
そしてなにか分かったりしながら、
人間として歩いて行っている。


 


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