DIARY

プラネタリウム

このあいだ実家に帰ったとき、
おふくろと、
むかし渋谷駅前の東急文化会館にあったプラネタリウムに一緒に行ったことを話した。

 

僕が小学生の頃だったと思う。
天体ショーが始まってすぐ、
おふくろは寝てしまったらしい。
そう言っておふくろは笑った。

 

ぼくはおぼろげにそのとき見た景色を覚えている。
暗く青い宇宙空間の色と、
天空に針であけたような無数の小さな穴から漏れる白い光の星々。
ぼくはワクワクしていた。

 

小学生の頃、
家には全20巻の分厚い百科事典があって、
その中の宇宙天体観測の巻だけは何度も読み返した。
当時はハッブル宇宙望遠鏡も無い時代だから、
アンドロメダ銀河だってぼやけて写真に写っていた。
不思議な形をした衝突銀河や電波銀河、
ブラックホールの想像図などを、
飽きもせず、何度も見ていた。

その姿をおふくろは見ていて、
渋谷に一緒に買い物に行ったときに、
ぼくをプラネタリウムに誘ったのかもしれない。

 

今でも宇宙の新しい発見があるとワクワクする。

つい先日、

地球から4光年という非常に近い距離に、

地球によく似た惑星が発見されたときもときめいた。

 

ぼくの宮沢賢治好きは、
おそらくその頃のプラネタリウムに入ったときの嬉しさと、
繋がっている気がする。

 

今も日課の夜のジョギングの時、

なにげなく宇宙を見上げてぼんやりしてしまうのは、

あのときおふくろとプラネタリウムに入ったからなのではないか。

 

 

 

 


宮沢賢治生誕120年イーハトーブフェスティバル

宮沢賢治生誕120年イーハトーブフェスティバルに出演してきた。

 

 

ライブと宮沢賢治の詩の朗読をするという初めての試み。
膨大な賢治作品の中から何を読もうかとても迷った。
はじめは童話を読もうと思っていた。
僕が大好きな「ひかりの素足」か「十力の金剛石」から抜粋して読もうと思ったが、
分かりやすく文を抽出しようとすると時間が長くなるので、
詩を何編か読むことにした。
それでもどの詩を読むか長いこと迷って、

どうしていいか分からなくなった。
結局、詩集「春と修羅」の「序」から「春と修羅」までを読むことにした。

 

賢治の詩を人前で音読したことは無かった。
練習してみるとやはり難しく、
つっかえてばかりいて、
うまく行くか不安だった。

 

賢治の詩を読んでいるうちに、
30年前に僕が大学に入ったばかりのときに作った曲を歌いたくなった。
稚拙だけれども、
シュールさにおいて最近の曲よりも賢治の世界に合いそうに思えたから。

 

 

前日の夜に花巻市童話村の開場に入って21時過ぎからリハーサルを開始した。
真っ暗の山の中のステージは幻想的で、
恐ろしいようなワクワクするような感じがした。

 

ギターを弾いて歌いだした瞬間、
音が周りの山に響き渡った。
すごく気持ちよい音だった。
澄んだ美しいエコーだった。

 

詩の朗読のリハーサルでは、
夜の山に響く賢治の言葉が、
生々しく迫ってくるようだった。
ライブは夕方やることになっていたが、
真夜中にやりたいと思った。

 

 

ライブ当日会場に来てみると、
前日の夜の幻想的な景色から一転して、
木々に穏やかな陽が差し込み、
森を抜けてきた風は涼しく、
会場一帯は子供さんからご年配の老若男女の方がたくさん歩いていて、
ほのぼのとした雰囲気だった。
蝉の声もどことなく気が抜けているように感じられた。

 

 

少し時間があったので、
会場内にある花巻博物館で縄文土器などを見た。
有名な縄文遮光器土偶。
だいたい同じような顔をしてるのが不思議だ。
当時崇めていた神様の顔なのか。
宇宙人の顔ではないかとも言われてるが、
バッタかトンボの顔のように見える。
もしかしたら縄文人たちは、
コオロギを神様だと思って崇めていたのかもしれない。

 

お客さんは会場の席をいっぱいに埋め尽くしていた。
夕方といえどもまだ陽がある時間なので、
音への意識が少し散漫になるかなと思ったが、
ライブが始まって歌った瞬間、今日はイケると思った。
前日の夜と同じく、
うっすらと山に木霊するギターの音と歌が澄み渡って聞こえた。
一瞬で僕は歌の世界に入れた。
お客さんもみなじっと聞き入ってくれた。
歌詞一つ一つが青空と雲と森とお客さんにリンクするようだった。
曲が終わるごとに大きな拍手。
集中を乱すものは何も無かった。

 

この日演奏した「瑪瑙の皮膚」は、
大学一年のときにサークルのライブで一度だけ演奏した未発表曲。
現代詩をよく読んでいた頃の曲で、
自分の曲の世界から賢治の詩の世界への架け橋になると思って選んだ。

 

賢治の詩の朗読は、
場の雰囲気の助けが強く働いた。
まだ陽が陰る前の夕方にもかかわらず、
時に難解で抽象的な言葉は、
様々な情熱のメタファーとなり、
花巻の森に集まる人々に響いてゆく気がした。

 

ライブは後半に入って白熱し、
大いに盛り上がって終わった。
賢治さんを感じながら歌うことができた。
とてもすばらしい時間だった。
お集まりいただいた皆さん本当にありがとうございました!

 

花巻では宮沢賢治のことを賢治さんという。
花巻には宮沢賢治の存在感が濃厚にある。
いつか岡本敏子さんが、
「太郎さんはね、生きているのよ」って言ってたいたけれど、
賢治さんも花巻に生きている気がする。
ライブで歌っている時もずっと、
こいつは何者だという感じで、
木の陰から賢治さんが会場とステージを見ている気がした。

 

 

 

イーハトーブフェスティバル2016
田島貴男 弾き語りと詩の朗読
セットリスト


月の裏で会いましょう
青空の向こうから
オレンジ・メカニック・スーサイド
瑪瑙の皮膚(未発表曲)

 

 

詩集「春と修羅」より朗読

 


屈折率
くらかけの雪
日輪と太市
丘の幻惑
カーバイト倉庫
コバルト山地
ぬすびと
恋と病熱
春と修羅

 

 

プライマル
接吻
朝日のあたる道
フリーライド

 

 

 


オリジナル・ラブ初期4タイトル、アナログで発売







オリジナル・ラブ初期4枚のアルバムが、
アナログレコードになって8月31日に発売される。
出来上がってきたLove Love & Loveのアナログレコードを聴いて、
恥ずかしながら感動した。
当時と全然違って聴こえる。
パンクニューウェーヴの影響が垣間見れる最後の時期。
当時のインディーロックのメジャーデビューアルバム。
25歳のオレ頑張ってる(笑)。

オリジナル・ラブのメジャーデビューアルバムLove Love & Loveは、
発売された1991年当時、
自分の実力の無さに不甲斐ない気持ちもあったが、
いま聴くとそれが返ってインディーロックの手作り感があって、
かっこよく聴こえる。
当時のストリートミュージックの香りがする。

プロデューサーを立てず、
自分達だけで作ったアルバムだからそうなったのか。
今聴くとスタイルカウンシルみたいに聴こえるけれど、
当時は全く意識してなかった。

もちろん、ペイル・ファウンテンズ、アズテック・カメラ、モノクローム・セット、
エドウィン・コリンズ率いるオレンジ・ジュース、キュアー、エコー・アンド・ザ・バニーメン、
ジョー・ジャクソン、スペシャルAKAなどの音楽は知っていたけれども、
それはもう少し前の時期。
このアルバムを作っている頃は昔のソウルやジャズに憧れていた。
頭の中には昔のソウルミュージックやジャズが鳴ってたけど、
技術が追っ付いてなくて、
そうなれなくて、
それが結果的に、
UKロックみたなサウンドになっていた感じといったところか。

そしてこのLove Love & Loveは、
パンクニューウェーヴの影響下から、
ヒップホップなどクラブダンスミュージックへ、
興味が移行してゆく時期にあるアルバム。
いま聴き返すとそれがよく分かるなあ。

アナログレコードだからか、
自分の作ったアルバムをあまり聞かなかったからか、
色々新鮮で面白い。
皆さん、
今こそこのアルバムを聴いてみてほしいです!



和音、スパイス、色彩

66年会のメンバー数人とカレー会に行ってきた。
スリランカカレー美味しかった!

 

音楽の和音の話になって、
僕はポップスやジャズで使われる和音をそこそこ知っているので、
いくつかのコードを説明してくれという話になった。

 

ちょうどカレーを食べていたので、
和音の種類を調味料やスパイスに例えて説明した。

 

メジャーセブンスコードは砂糖。
セブンスコードは塩。
ナインスはクミン。
シャープドナインスは黒胡椒。
フラットナインスはマスタードシード。
サーティーンスはコリアンダー。
フラットサーティーンスはターメリック。
イレブンスはカルダモン。
シャープドイレブンはクローブ。
などなど(笑)。

 

絵やデザインをする人なら、
構図がメロディーで色が和音になるのかな。

 

メジャーセブンスはピンク。
セブンスはレッド。
ナインスはオレンジ。
シャープドナインスはエメラルドグリーン。
フラットナインスはダークブルー。
サーティーンスは….なんだろう(笑)。

 

曲を作っている人は和音の種類にそれぞれ気持ちが動くような感覚があるように、
料理を作る人はスパイスの種類に、
絵やデザインを書く人は色の種類に、
心をときめかせるような感覚があるのかな、
などと、

勝手な想像をしてみた。

 

 

 

 


才能と情熱

僕には才能はあまりないと思う。
情熱ならそこそこあるかも。
才能のある音楽より、情熱のある音楽が好きだ。
人は才能よりも、
情熱と感受性に惹き寄せられると思いたい派なんだな。

 

だから僕が惹かれるアーティストは天才的な人ではなくて、情熱的な人。
スマートな人ではなくて、一生懸命な人。

 

音楽の才能がありますね、と言われるより、
音楽の情熱がありますね。と言われる方が嬉しい。
嬉しいというか、当たっている感じがする。
むしろ実際は、才能が無いなあと落ち込むことの方が多い。
だから練習したり試行錯誤したり、

なんだかんだするんでね。

 

才能がありますね、と言われてしまうと、
僕がそれまでやった練習やら試行錯誤やらを、

無かったものと評価されてしまうようで、
ちょっと寂しい感じがする。

 

僕もそこそこ練習をしたし、
曲は子供の頃からずっと作り続けてきた。
それは才能があったわけではなくて、
ただ好きでずっとやり続けてきただけ。
曲作りや音楽のことに夢中になっていた。

 

才能は、不可能を可能にしてくれなかった。
練習やら試行錯誤やらをする情熱が、
時々、不可能を可能にしてくれた。

 

 

 

 

 

 

 


真面目さと正直さ

スカパラの谷中敦が「真面目さと正直さ」についてツイートしてるのを読んだら、
いろいろまとまらないイメージのようなものが浮かんだので、
まだ考えの途中のような状態をとりあえず書き留めておこうと思った。

真面目だなあと人に言ってみたり。人から言われたり。
真面目っぽくなさそうな人に実際会ってみたらすごく真面目だった、
ということもよくある。

でも、「真面目」は、
誰もが共有する「一般的な真面目の基準」と、
「真面目」の量も内容も種類も人それぞれ違う「個人的な真面目の基準」の、
二種類があるように思える。

或る人に会うまでは分からなかったけれど、
その「或る人」に会って話すと、
その人なりの「真面目さ」の基準が分かって、
「ああ実はこの人も真面目な人だったのだ」となる。

ルーズに生きたい人はルーズに生きることに関して真面目だったりする。
殺し屋は殺し屋なりの「真面目さ」があるのかも。

夢を実現したスポーツ選手のような人ほど、
その人が作ったルールに関して真面目なのかもしれない。

でも人生には、
それまで生きてきた「個人的な真面目の基準」が、
自分に合わなくなったことに気づいたり、
その真面目の基準に修正を加えなければならないことに気づいたり、
その真面目の基準が、
実は間違いかもしれないと気づいたりすることが、
稀にある。

そこに「正直」という基準で判断するべきことがあるのかも。
どれが、なにが、本当に正直か。
本当に「正直」にならなければ生きていられないこともある。
本当に正直でいることが、すごく勇気が必要な場合もある。
その「正直」が、それまでの「個人的な真面目の基準」と対立することだってある。

そしてさらにその正直は、
「一般的な真面目の基準」とさえ対立することさえある。
「一般的な真面目の基準」が本当に正しいか、
疑わしいことだってあるかもしれない。

自分にとっての「真面目」を信じて生きたり、
時々その「真面目」に、
嘘をついたりしながら生きたりするのが、
普段の生活なのだろうけれど、
真面目は、
その人にとってのその時の「真面目」であって、
その自分にとっての「真面目」を疑っておく視線は、
心の物凄く端っこのあたりに、
できれば持っておくべきなのかもなあと思ったりする。

どんなに「真面目」になりきっても、
「不真面目な部分」は残るし、
残って良いものだし、
残さなければならないのかもしれない。
「真面目な自分」を監視する「不真面目な自分」は、
ほんの少し居たほうが良いのかもしれない。

と、ここまで書いてきて、
あ、でもこの「一般的な真面目の基準」と、
「個人的な真面目の基準」って、
吉本隆明さんが言っていたことの焼き直しなのかもしれないなあと今思った。

吉本さんは、この「一般的な真面目の基準」と、
「個人的な真面目の基準」は、
対立し、逆立する場合があると言っていた。
そしてこの二つの真面目の基準の間に、
男女の関係、師匠と弟子の関係の間にあるような、
「対になるような形をした真面目の基準」の段階が存在していることも言ってた。

例えば、或る人が、
「あいつは不真面目な奴だ」と決めつけて、
その人を大人数で攻撃することや、
「あいつは真面目な奴だ」と決めつけることに対して、
なにか違和感を感じることの発端は、
この吉本さんの考え方に影響されていることが多いのかもしれないなあと、
いま思った。

その人個人にとっての「真面目の基準」、
「男女間に働くような対の形の真面目の基準」、
「村や街やある集団の中に働く真面目の基準」、
国や宗教みたいな「もっと大きな集団の真面目の基準」のように、
「真面目」には、大きさ、広がり、段階、があるのだろうな。


 


感動と煽動

感動は創り出すものなのか、
それとも自然に現れてしまうものなのかは、
曖昧になりがちなところだ。
人の為の作品なのか、
自分のための作品なのかで違ってくるポイントだ。
よりリアルな、まっとうな、深い感動は、
自然に現れてしまうものの方だとは思うけど、
実際にはその両方を作家たちはやりくりしながら、
うまくいったりいかなかったりしているのではないか。

スポーツ観戦の感動が羨ましいのは、
その感動が常に選手当人のものであって、
その感動を見た人が同調して感動しているという構造をしているところだ。

しかし、そういったことに気をつけながら作品に接したり、
作っていったりしていきたい。
扇動的な感動作品かどうかに気づくために。
そうでないと、
感動と陶酔の沼にいつの間にかはまって、
感性が大きくズレてしまう気がする。






 

青春の曲

去年の暮れから取りかかっていた新曲数曲のレコーディングがほぼ終了して、
ミックスダウンの作業を残すのみとなった。
正月をほとんど返上してこの仕事に取りかかっていたので、
やっとお正月がきた気分だ。

新曲は、いろんなミュージシャンといろんなスタジオでレコーディングして作られた。
躍動感、疾走感ある、かなりポップな曲。
時間と労力をフルに使って贅沢な仕上がりになったと思う。

僕が10代の頃によく聴いていた曲を、
今の自分がやってみるとこういうふうになるのかという感じ。

僕は普段はしょっちゅう料理をするというわけでもないが、
料理は良い気分転換になるので、
歌詞を書く時はよくやる。

数日間誰にも会わずひとり部屋で歌詞を書いて、
行き詰まると小豆を煮て気分転換した。
冷蔵庫に僕が作った餡子のストックが切れることはなかった。

僕は20代の頃までは、
大人ぶった背伸びしたような曲を書こうとしていたのかもしれない。
時は巡り巡って今頃青春の香りがする曲が書きたくなった。
青春として今を生きようとすれば、
現在がいつでも青春になる気がする。
そんな新曲が出来ました。力作です!
お楽しみに!



 

ジャズと孤独

ひとりソウルツアーも11本を終え、
ようやくステージの上で少し落ち着いていられるようになってきた。

今回の「ひとりソウル」は、
今までよりジャズのテクニックを多めに使っている。
それなりに難しいことをいろいろやっているが、
その難しさはなかなか理解されにくいだろうと思う。
なぜなら自分でもようやくその難しさが分かり始めたところだから。

ジャズはテクニックが高度になればなるほど、
それを知らない人に伝わりにくくなってゆくという面をもっているのかな。

ポップスは、追求するほどに人間の普遍性に近づいてゆくという面があるが、
ジャズは、追求するほどに、
普通に人が音楽を楽しむ感覚から遠ざかってゆく面があるのだろうか。

ジャズは、追求するほどに醸し出される音楽が美しくなってゆき、
演奏者はその面白さを実感できるようになってゆく反面、
リスナーから理解されにくくなってゆくという面を持つ音楽なのだとしたら、
ジャズは孤独な音楽なのだなあと思う。

よく、歴史に名を残す前衛ジャズミュージシャンが、
酒や薬に溺れて行きがちなのは、
自分のジャズを追究することによって、
音楽の美しさが高まってゆくのに、
それがなかなか理解されず、
運悪く評論家にも正しく評価されないために、
その孤独を紛らわしているのではなかろうか、
などと勘ぐったりしてみる。

 

リバティーンズ"Anthems for Doomed Youth"

最近買った何枚かのアルバムのうち、
リバティーンズの新譜"Anthems for Doomed Youth"は繰り返し聞きたくなるアルバムだった。
もうずっと前にスタッフから彼らのファーストアルバムを聴かせてもらって、
その時もいいサウンドだなと思ったのだが、
それきり聞き込むことはなかった。
しかしこの三枚目のアルバムが非常に良かったので、
ファーストアルバムを辿って聴いた。
久しぶりにこういう音もいいと思った。
僕が知っているパンクの音はこんな感じだった気がする。
いわゆるロックらしさとか、
メタルとか、
ハードコアやオルタナティヴ、
ミクスチャーとも違う、
混じり気のないパンクの音。
そんな音を聴いて、
僕は曲の作り方を思い出したような気がした。

リバティーンズのような音は一時の閃光のようなもので、
若い時に一度やってみようとすればいいものだと思う。
その時にしか生まれない奇跡のような瞬間がある。
その時にしか生まれないからこそ、
そのサウンドは説得力がある。
それでも99パーセントの人々はリバティーンズのようにはうまくいかないだろう。

年齢とともに、
時とともに自分を含めた全ては変化してゆき、
もちろんサウンドも変化してゆく。
変化しなければ、
病気になったり、
解散したり、
命を落としたり、
形だけのことをやるようになってゆく。

巨星が死を迎え爆発して閃光し、
その後徐々に暗くなりながら残光を放つ。
その美しさ。

リバティーンズの新譜"Anthems for Doomed Youth"は、
そんな青春の美しい残光が見えるアルバムなのかもしれなくて、
僕はそこに惹かれたのかもしれない。
ルーズで拙く時に荒々しい演奏でありながら、
聴く者を感傷的にさせる繊細な音楽だ。

リバティーンズを聞いて曲の作り方を思い出したけれど、
僕が今からあのようなサウンドをやるはずがない。
自分が若かった時だってその道を選ばなかったのだから。
僕は当時、パンクがカリソメの音楽だと理解した。
だからこそ、
その儚い輝きが眩しくて、時々憧れを感じるのだ。



 


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